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気まぐれ東大生の思想

僕の生きた結果について〜考察〜

kazuki

少し時期外れになるのですが、先日渋谷にハロウィンの見物に行ってまいりました(※服装は私服です。仮装はしていません)。

ハロウィンに関しては、「本来は子供が仮想する行事だ」等いろいろ否定的な意見がありますが、僕は割と肯定的です。僕は日本の文化は、その柔軟性に本質があると思っています。食事においては、ラーメン、カレーは中国、インドのものとは異なるし、様々な宗教の行事を独自の解釈で楽しんでいる。これは、日本の良さなのではないかと思っています。何より、普段鬱蒼としていて他人との距離が遠いこの都市で、あれほど人々が楽しそうに交流し合っているのを見て、この行事にも一定の意義はあるのではないかと思いました。

今回は日本のハロウィンの是非を議論したいわけではありません。僕が考察したいのはその後の話です。

SNSで、大人が汚した街を子供が片付けている画像が話題になりました。僕はその画像を見て、「今の日本の縮図じゃあないか」と感じました。今の大人が作った負債が僕達に引き継がれ、また後の世代へと引き継がれていく。そんなことを考えているうちに、ふと「僕の生きた結果とは何なのだろう」という疑問が浮かびました。

僕が消滅した後には、僕の存在は残りません。しかし、存在する前と存在した後に何かが変化すれば、それは僕の存在した(結果)ということになります。例えば、ハロウィンの例では、あの仮装した人たちのあの時間をあの場所で生きた結果は「ゴミ」であったということになりますね。存在していた時間が如何に楽しかろうが有意義であろうが、関係ない。そこに残したものが、そこで生きた結果なのです。この時、もちろん自分には思い出が残り、別の結果が残ります。それは、ゴミとは関係ないし、良いものなのかもしれません。

では、僕が死んだ後にこの世に生きた結果として残るものはどうであろう。僕が死んでしまった後に僕の意識は存在しません。僕がいい経験をして、楽しんだとしても、それは全て灰になります。それは、僕がこの世にもたらした変化、他人に与えた意識の変革です。(富や財産は違います。それはもともとこの世に存在したものです。)例えば、ある歌手が素晴らしい歌を歌ったとする。その歌を聞いた人がたくさんいて、各々が影響を受け、中には歌を作る人が出てくるかもしれないし、考え方を変化させる者もいるでしょう。その変化は連鎖的に他の人へと波及していき永遠に生き続けるのです。その結果は、ある人は「損失」かもしれないし「功績」かもしれない。僕は、「自分の生きた結果がゴミでした」なんていう生き方だけはしたくないと思っています。

結果に関して、もうひとつ。僕は、人生の結果とは今この瞬間に僕が残している、この瞬間を生きた結果の積分であると考えています。人生で良い結果を残したいならば、今を大切にしなければならない。そういう心持ちで生活しています。もちろん僕は未熟であり、悪い結果を残してしまうことも多々あるででょう。しかし、意識の上では結果を意識する。例えば、飲食店に行ったあと机の上を煩雑にしたまま、机を見だしたまま帰っていないか。僕は、必ず「立つ鳥跡濁さず」を意識しています。小さくしょうもないことなのかもしれませんが、意識こそが人の行動を変えていく。「小さいことが出来ない人は大きいことなんて出来やしない」なんて言うのも、意識の話でしょう。とりあえず、できることをいしきしてやっていくのが僕のスタイルです。蛇足ですが、ハロウィンでゴミを残していく人も、飲食店で乱したまま帰っていく人もやっていることは同じです。規模が違うだけです。

日頃の小さな意識から自分を正していき、僕の人生の終わるときには、この世に大きな「功績」を残せている。そんな人生を歩みたいと思っています。

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